ISBN:978-4106037955 教養としてのゲーテ入門
文学作品の解釈で、この広い意味でのエディプス・コンプレックスの図式が利用されることはしばしばある。エディプス・コンプレックスによる分析は便利なので、気軽に使われやすく、ゲーテの作品全般、さらには彼の人となりについても、エディプス・コンプレックスで説明しようとする試みはしばしばなされる。
しかしゲーテ自身は、この小説を「私の一番の本」と評しているし、二〇世紀の文芸・芸術批評に圧倒的な影響を与え、今でも都市表象分析やメディア論でしばしば引用されるドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン Walter Bendix Schoenflies Benjamin(一八九二─一九四〇)はこの小説を論じた評論『ゲーテの「親和力」』(一九二四─二五雑誌連載)で、この作品に即して、「小説」における「生」の表現が意味するところをめぐって哲学的に突っ込んだ議論を行っている。この評論は、かなり難解だが、ベンヤミンの文芸評論の代表作である。社会学者のマックス・ヴェーバー Max Weber(一八六四─一九二〇)も、この小説に強い影響を受け、ゲーテの「親和力」の概念を自らの理論に取り入れているとされて このように、自分たちとは直接関係ない一般論について語っている、あるいはその一般論を比喩にした世間話をしているにすぎない登場人物が、その一般論に含意されている法則にいつのまにか呪縛されている、というのは、恋愛・不倫をテーマにしたものに限らず、小説やドラマでよく使われる手法である。読者あるいは観客・視聴者には、登場人物が自分に呪文をかけているように見える。
この「作品」と「生」の結び付きと逆転をめぐる問題は、フランスの哲学者・文芸批評家ジャック・デリダ(一九三〇─二〇〇四)によって提起された「エクリチュール écriture」と「パロール parole」をめぐる、より一般的な問題に繫がっている。「エクリチュール」というのは、書かれた言葉あるいは書く行為、「パロール」は、話し言葉を意味するフランス語であるが、デリダは前者を、書き言葉のように規則によってフォーマット化された言語あるいは表現行為、後者をそうした規則性に拘束されておらず、その場の思いや状況に従って自発的に発せられる言語あるいは表現行為という意味合いで使っている。
この「エクリチュール/パロール」の関係はさらに遡って、言語や記号によって表現されたものと、生身の身体感覚との関係へとシフトして考えることができる
このような形で、「エクリチュール/パロール」関係は、「人為的なもの/自然なもの」をめぐる関係一般に拡張することができる。
現代ではこのタイプの長編小説は少なくなっているが、村上春樹(一九四九─ )の作品の多くは、主人公の内面や世界観の変化に焦点を当てているという意味で教養小説的であると見ることができる。日本のアニメで、主人公の成長に焦点を当てているものが、〝教養小説〟的に読まれることもある
そう考えると、「役者=見せる演技者 Schauspieler」というのは、技巧を凝らした「演技」によって、連続的に「演技する」ことを通して各自の「人格」を形成している人間、特に「市民」の本質を表現する存在だと言えそうだ。
三日以上同じ屋根の下に留まってはいけないというのがそのルールだ。しかも宿を移る時は、前の宿から一マイル以上距離を取らねばならない。
ただし、キリスト教文化圏では、神の被造物ではない貨幣が、あたかも生殖能力を持っているかのように自己増殖することを前提とする金貸しは、神の摂理に反する行為とされてきた。旧約聖書の出エジプト記や申命記では、同胞から利子を取ることが禁止されている。アリストテレスも、貨幣の本来の機能から外れている「利子」を生業とする高利貸を非難しているし、中世の最大の神学者トマス・アクィナス(一二二五頃─七四)も『神学大全』(一二六五─七三)で「利子 usura」の不自然さを論じている( 2)。こうしたキリスト教の基本姿勢は、「金は金を産まない Nummus non parit nummos」という警句で表現されている。